教えのやさしい解説

大白法 440号
 
世法と仏法(せほうとぶっぽう)
 世法とは、俗諦(ぞくたい)また世俗諦ともいわれ、凡俗(ぼんぞく)の迷情(めいじょう)によって立てられた道徳や法律、または社会・組織などにおける規律(きりつ)などをいいます。
 また広くいえば、文化や政治・経済などのあらゆる現象も世法に属(ぞく)します。
 仏法とは、真諦(しんたい)または出世間法ともいわれ、仏の悟りの内容、さらには迷いの衆生に対して説いた法界(ほうかい)の真理(しんり)と、それを体得するための修行をいいます。
 世法(俗諦)と仏法(真諦)について、天台大師は『法華(ほっけ)玄義(げんぎ)』に、
「名は衆経(しゅきょう)に出(い)つれども、其(そ)の理は暁(あきら)め難(がた)し」と、名目(みょうもく)は種々の経典に出ているが、その理を正しく説き明かすことは難(むずか)しいことである、と述べています。
 しかし、法華経の『方便品』に
 「是(こ)の法は法位(ほうい)に住(じゅう)して 世間の相(そう)常住なり」(開結 一八三)
また、『法師(ほっし)功徳品』には、
 「若(も)し俗間(ぞっけん)の経書(きょうしょ)、治世(ちせい)の語言(ごごん)、資生(ししょう)の業(ごう)等を説かんも、皆(みな)正法に順ぜん」(開結 五六一)
とあるように、天台は、世法における政治・経済・文化等のあらゆる現実の姿がそのまま仏性(ぶっしょう)常住の世界であると説く法華経(諸法(しょほう)実相)に立脚(りっきゃく)し、世法(俗諦)と仏法(真諦)の解釈をしました。
 すなわち、『法華玄義』に「円教(えんぎょう)の二諦(にたい)とは、直(ただ)ちに不思議の二諦を説くなり。真は即ち是(こ)れ俗なり。俗は即ち是れ真なり。乃至不二(ふに)にして而(しか)も二」とあるように、法華円教に明かされた世法と仏法こそ一体円融(えんゆう)の不思議の法であり、法界の実相であることを明かしたのです。
 さらに天台は、『摩訶(まか)止観(しかん)』に、世法のあらゆる姿のなかに法華経の真理が貫(つらぬ)かれていることを説き、それを達観(たっかん)する一念三千の観心(かんじん)修行を説いたのです。
 このように、法華経の悟りの上からするならば、世法即(そく)仏法であり、別々のものではないことがわかります。
 しかし、私たち衆生の凡眼(ぼんげん)・凡智をもって、直ちに世法と仏法が一体であるということではありません。
 日蓮大聖人は『諸経と法華経と難易(なんえ)の事』に、
 「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし」(平成新編御書 一四六九)
と仰せのように、仏法の根本である下種の妙法は本体(ほんたい)であり、世法はそれに対して影(かげ)なのです。
 つまり、仏法の究極(きゅうきょく)である文底本因(ほんにん)下種の法華経に基(もと)づいてこそ、政治・経済、さらには文化をはじめとする世法の一切の現象が、悉(ことごと)く仏法の妙理のあらわれとして活現(かつげん)するのです。
 ゆえに『観心(かんじんの)本尊抄』に、
 「天晴(は)れぬれば地明(あき)らかなり、法華を識(し)る者は世法を得(う)べきか」 (平成新編御書 六六二)
とあるように、末法の衆生は、正直に我意(がい)・我見(がけん)を捨てて、一切法の根源である南無妙法蓮華経の御本尊を受持し、信行に励むならば、誰人も世法の上に揺(ゆ)るぎない幸福を確立していくことができるのです。